こんにちは。当サイトの管理人のマサムネです。
私のプロフィールに関心を持っていただいてありがとうございます。
このページでは、管理人の私にご興味を持ってくださった方向けに、私の半生とどのように考えたかを書いておきたいと思います。(前半)
ざっくり書いておいて、詳細についてはまたそれぞれ別の記事に記そうかと思います。
義務教育時代 してほしくないことだらけ
小中学校ではひょうきんな感じでたまにリーダーもしたりするけど、そこまでは人望もない小太りって感じでした。
自信がないからお調子者になって、なんとかみんなに溶け込んでいた感じでしょうか。
勉強は平均ちょいうえくらい、5段階でいえばだいたい4くらいの男でした。
それでも勉強も全くせずにそんな感じなので、
「ちゃんと勉強しさえすれば上位とれるけどめんどくせえ。」みたいスタンスでした。
ちゃんと勉強しても上位をとれなかった時のことを考えて、怖くて努力できなかったのかもしれません。
非常に優秀で年の離れた姉が二人もいまして、田舎のマンモス校なのに二人とも成績が常に5番以内とかでした。
彼女らの伝説がまだ残っている間に入学するもので、優秀かと思いきやそうでもない残念な弟だったわけです。
小中学校はそれなりに楽しく通っていましたが、特に何に打ち込むわけでもなく、やりたいことなんかは別にありませんでした。
しいて言うならのんびり生きたかったですし、一生遊んでいたかったです。
両親はそれなりに厳しく、父親は中学教諭で生徒指導なんかをやっていましたので、まぁ殴られて育ちました。
嘘をついたり、ごまかしたり、こういったことには厳しくて、いつも最後まで追及されてはボコボコにされていました。
そういえば自分から何かをしたいと言い出したことはなく、概ねだいたい親にやれと言われたことをいやいやっていたように思います。
いやいやなので全部まったく身にはならないのですが、多少器用だったこともあり最低限はなんやかんやできるわけです。
卓球やらクラシックバレエやら行く先々の習い事で、
「こいつはちゃんとやればできるだろうにやる気がないからダメだ。遊んでばっかりいる。」
みたいな叱られ方を、行く先々の先生に言われていました。
塾の模試に無理やり連れていかれたときは、いるのがイヤすぎて勝手に帰ってしまったこともあります。
今考えたらやりたくもないことに無理に通わされて、
「やる気がない」と言われてもそらそうですがなって感じなんですが、
その時は「自分はダメな奴で努力とかは基本的にできないんだなぁ」って自分にレッテルをはってました。
努力っていう言葉が苦手で、なんとなく
「やりたくもないことを粛々とやり続けるちから」
みたいな感じで自分の中で定義づけしていました。
でも歌を歌ったり、先生のモノマネをしてみたり、カセットデッキに自分の声を吹き込んで芸能人の声マネをしてみたりということは誰に頼まれてもいないのにやったりしていました。
これ、実はもう少し後の人生で生きてくるんですが、多分これこそが学びであり努力だったのではないかと思います。
僕が一番していたことと言えば、町中を自転車で走り回って色んな所に遊びに行って好きな遊びをしたり、
友だちの家に上がり込んではこれまた好きな遊びやらゲームをしまくったりということでした。
大人になってから知ったのですが、みんなあんまりそんな頻度で人の家行ったり出かけたりしないみたいですね。
でも僕的には全然足りなくて、休日に毎週父と釣りに行ってたんですが、
これも正直イヤだなーって思っていました。
休日の番組見れないし、友達と遊べないし。
習い事も休日の釣りも断ったらいいだけなんですが、何せ殴られて育ったし父が怒ってる姿は見たくなかったのでとても断れなかったんですね。
真正面から断ったら不機嫌になるかもしれないという思いと、断ったらがっかりするだろうなという思いと。
そんな感じで、平日に友達と遊ぶこと以外は、基本的に人生は怒られたりつまらんことする日々の連続だって思ってました。
書いていて思いますがあまり健全なメンタリティではないですね。
中学では生徒会に入ったり部活の部長をしたりと割とリーダーっぽい感じのポジションにいたんですが、
教師である父親にしつけられたこともあり、学校の決まりにいちいち反抗したりしない僕は
多分御しやすかったからリーダーっぽいことさせてもらえてたのかなと思います。
中学校の体育祭のBGMを勝手に洋楽のロックに変えたり、行事でウケ狙いのムービーを作って流したりと、
今考えると少しはエネルギッシュだったかなと思います。
そういういいところに自分で気づいて自分で伸ばせていたらなーと後悔します。
高校受験までに父から受けたプレッシャーは尋常でなく、成績のことでは毎回人格を否定するような言葉を言われていたように思います。
国立高専に行くよう言われていて、5教科のテストは450点以上が最低ラインなのですが、僕は
だいたい430~400点くらいで、3年になると400点も取れないことがだいたいでした。
勉強全くしていなかったですからね。
宿題のワークも丸写しして出すだけ。
3年生の半ばくらいで
「もうお前のことはあきらめとんねん」
と父に言われたことはなぜか今でも覚えています。
当時僕は何がしたかったのか。
でも夜7時くらいになったら帰ってくる父親の車のディーゼルエンジンの音を聞くのが、毎日すごくストレスだったことは覚えています。
僕は褒められるようなことを何も生み出せないし、努力もできないし、別にやりたいこともない。
あるのはやりたくないことだけ。してほしくないことだけ。
もちろん高専は落ちました。
地元の共学に行って友達と学校に通いたいと言うと。
「友達なんかと毎日遊んですごして、そんな生活が何になるんや」
と言われ、それ以上言い返せなくて、結局高専に編入できる可能性のある遠く離れた工業高校に通うことになりました。
高校時代 不本意な場所に来てさらに落ちぶれる自分
高校入学の祝いになぜか父親がケータイを買ってくれました。
姉たちは甘いと言って文句を言っていましたし、僕もそう思いました。
親の心子知らず、、、というか、釣りに連れて行ったくれたり、進路のことをアドバイスしてくれたり、プレゼントで喜ばせようとしてくれたり、当時も今ももちろんわかっていますが、きちんと愛情を持って育ててもらっていたわけです。
今考えるのは、自分ももっと自分のやりたくないことをはっきりというべきだったなということです。
ただまぁ、恐怖で意見を言えない心境になっていたのも事実なので、自分の子にはそういったことにならないよう、僕は僕なりに子育てをすればいいと思います。
最近2歳の娘が僕に本気で怒った顔をして言い返してきたのですが、僕はこれがとっても嬉しいんです。
だって、僕は言い返してもいい父親なんだって娘に思ってもらえてるんですよ。
まぁ何せ買ってもらえたケータイを持って高校に通うことになるんですが、もう高校になると両親は成績のことにほとんど関知してきませんでした。
なんかもう姉たちの時からもそういった方針だったらしく、このあたりでいっきに僕のストレス量は減りました。
まぁあとは高校くらいになったらそうそう怒られるようなアホなこともしませんしね。
これはシンプルに発達段階の話です。
高校に入って最初の方のテストはぶっちぎりだったようです。
そりゃ周りは5段階で3や2をとっていた人たちの集まりですから、入学すぐのテストで負けるはずがありません。
なんとなく教師たちにも優秀な部類で見られるんですが、違和感を感じます。
「僕は姉弟では落ちこぼれているし中学でも特別優秀ではなかったのに、ここでは優秀なのか。」
まぁ当時おバカだった僕は相対的に優れていると勘違いしてまた何もしなくなるのですが・・・。
入学してすぐのオリエンテーション合宿で水筒に酒を入れて持ってきている生徒が夜中に飲み始めました。
今考えると、必死に悪ぶりたかった子どもの些細な冒険心にすぎないのですが、田舎の平和な学校で育った僕にはカルチャーショックでした。
入学すぐにわざわざ学校でお酒を飲むようなやつ・・・
しかもクラスの他の子にトイレ来いやとか言われたりもして、もう来る場所間違えた感が半端でなかったです。
「この学校にはバカとヤンキーしかいない。最低のところに来てしまった。」
学校での勉強はと言えば、一般教科の勉強は勉強苦手な子用にデザインされた内容なので
「とにかくバカなんだから覚えろ!」みたいな内容で面白くありませんでした。
専門教科についてはそもそも父との約束で全く興味のない建築学科に入っていたので、全然頭に入ってきません。
ここでもまたどんどん落ちぶれていきますが、クラスではだいたい10番以内にいるのでなんとなく賢い部類だったように思います。
ただ、設計の課題とかデザインの課題では、やりたいことがはっきりしている子たちにぐんぐん置いていかれました。
学校では友達もそんなに多くなく、なんとなくいつも一緒にいるメンバーとだいたいカラオケに行って遊ぶという毎日でした。
大学受験するにあたり、自分の成績で受けられる国公立を推薦で受けてみましたが、面接で聞かれた三次方程式が全く分からず勘で答えて見事に落ちました。
あのとき絶対見当違いの答えを言っていたように思います。
恥ずかしいです。
当初もくろんでいた高専の編入はもちろん成績が足らなくて受けられませんでした。
じゃあ今から一般で受けてどこか大学に行こうか。。。と思ったら出願の日程がすべて終わっていました。
浪人時代 ちょっとずつ逆転が始まる
無事?高校を卒業しましたが出口がなかった僕はとりあえず予備校に通うことになりました。
理系の国公立を目指すクラスで一番おバカなクラスに入りました。
基本的に偏差値50くらいの普通科を出た浪人生たちがいるクラスで、いわゆる落ちこぼればかりのところです。
高校のカリキュラムを秋くらいまではじっくり学習していくみたいなスタンスだったので、
一般科目の学習をほぼしていなかった僕的にはすごく助かりました。
ただ一発目の数学から何を言っているのか全く意味が分からなくて、困ってしまいました。
近くの席で授業を受けていた人は、
「俺ら今こんな授業受けてて間に合うんかな?」
みたいな会話をしていて、
「え?!俺全然わからんのに?!」
と、一人でめちゃくちゃ焦っていました。
どこのコミュニティに行っても変な子はいるもので、
浪人生なのに人のことを見下したり揉めたりしている子たちもいて、
このあたりから世の中にはいろんな人がいるんだなということを実感していったかもしれません。
というか、こいつらは浪人生という最も非生産的な身分のくせに何をやっているんだ・・・?
と思いながら見ていました。
特に授業さぼってゲーセンに行ってた子とかにはもうドン引きでした。
とはいえ僕もそこまで勉強に身が入っていたかと言えばそうではなく、
数Ⅰやら数Ⅱあたりはわかるようになっていったのですが、古文漢文とか英語とかはからっきしダメでした。
理科は物理と化学をとっていましたが、物理はぎりぎりなんとかなったものの化学もチンプンカンプンでした。
勉強のための勉強は、結局あんまりできないのかもしれません。
夏くらいになって、息抜きを兼ねて大手の芸能事務所のオーディションを受けてみました。
もともと目だったり人を笑わせるのが好きだったことと、タレントが声優をしたりいろんな場所でロケをしたりという姿にいいなぁという思いを抱いていたからです。
芸能人になれば、自分が楽しいと思える色んなことを仕事にして華やかにいられそう。
まぁ甘いんですが10代なのでそんな感じで考えていました。
他事務所から来た人や色んな養成所を出た人達が応募している中、なぜか書類も実技選考も通ってしまって、
某有名事務所に正式に所属することになりました。
育成枠兼所属タレントという感じだったので、お抱えの箱で芝居をやらせてもらったり、舞台やテレビの端役に出たりという仕事をしながら浪人生活を送るようになりました。
今考えると爆発的にトンチンカンなんですが、稽古場に通ったり劇場や現場に行ったりする費用を、親からもらうお小遣いで賄っていました。
こんなにハングリーじゃない若手タレントも珍しい・・・。
受験前は少しだけ活動を抑えさせてもらいながら、入試に臨みました。
浪人途中から芸能活動に手を出していたわけですから、深い学習も全然していなくて、自分の学力で受かる大学を探しました。
探せばなんでもあるもので、1次試験の受験科目が簡単で、2次は小論文しかない国立大のとある学部を見つけました。
タレントとしての活動も続けつつ、浪人生活に出資してくれた親にも納得感を持ってもらうためにそこを受けました。
浪人で培ったなけなしの数学力と、現代社会や理科総合といった常識力だけでなんとかなるような科目を活かし、センター試験はB判定でした。
残る小論文も
「その場しのぎの小論文」という薄っぺらい参考書にあった
小手先のテクニックだけで通過し、晴れて国立大生の肩書を手に入れました。
努力=結果ではなく、
正しい積み上げとそれを適所で使うこと=結果につながるんだなと
19年も生きてきて初めて知りました。
タレントオーディションは30倍、受験は5倍と
それぞれけっこうな狭き門でしたが、大した努力もせずに通過できたことで
なんとなく人生好転しているかなと感じていました。
ただ、よく考えると普通の結果なわけです。
オーディションの方は、ド緊張して自分のパフォーマンスが出せない大人たちがいる中で、
プレッシャーもなくのびのびと自分をアピールできました。
オーディションでうまくアピールできたのは、子ども時代から友達を笑わせるためにカセットテープで練習を重ねたり、
リーダーをたくさんすることで、大勢の前で何かを表現する準備ができていたからかもしれません。
受験に通れたのも、僕の目的が「親を納得させられる大学に入ること」だったわけで、
それについての必要最低限の積み重ねはできていたというだけの話です。
つまり、適切な努力とそれを活かせる選択をした結果、うまくいったというだけのことでした。
今になって初めて言語化しましたが、このころからそういった思考になっていたのかもしれません。
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