教育から怒りをなくしたい。
そう考えて、公立中学校の学級経営で3年ほど叱らない指導を実践しました。
この記事では子どもを叱らない教育の基本的な考え方を述べていきます。
なぜ叱ってはいけないのか
そもそもなぜ子どもを叱ってはいけないのかということを整理しなければいけませんね。
教育という目的のために、指導者や親は子どもをしかります。
なかにはそれを大人の責任であるとまで考える人もいますが、僕は子どもを叱るべきではないと考えています。
教育の目標は自立である
これは心理学の三大巨頭の一人であるアルフレッド・アドラーの言葉ですが、僕自身もまさにそのように考えています。
育った環境や他人のせいにするのではなく、自分自身をありのままに受け入れて、人生を進んでいく。
そういった姿勢を身に付けてもらうことが、教育の目標であると考えています。
これからの世の中ではAIやロボティクスの発展がさらに加速し、これまでの教育で育成してきたような人材は、残念ながら不要になることが予想されます。
つまり、言われたことをただやるだけの、平均点が取れる人材を大量に生産している教育はもはや時代遅れなわけです。
そうではなく、今自分に何が必要なのか、今周囲の人や世の中に何が求められているのか、
そういったことを自ら考え行動していくという姿勢を身に付ける必要があります。
そういった意味でも、自立は個々人が人生をかけて目指すべき目標であるともいえます。
さて、ではなぜ自立を目指すときに、叱ってはならないのか。
それは「叱る」も「怒る」もどちらもが子どもから自立を奪う行為だからです。
力を用いた指導は自立を奪う
例えば授業中に私語をした子どもを厳しく𠮟りつけたとします。
反抗心の強くない子どもであればしばらくは授業中に私語をすることはないでしょう。
では例えば他の先生の授業をい受けた場合どうなるでしょうか。
おそらくこの子はまた私語をするはずです。
この子の目的が、「周囲の友達に配慮しよう」ではなく「あの先生に怒られないようにしよう」だからです。
物事の本質を考え、周囲の友達に配慮して私語を慎んでいるわけではなく、
ただただ面倒ごとにならないように静かになったふりをしています。
表面的には同じ結果ですが、本人の成長度合いでいくと雲泥の差です。
叱るにはこれくらいの効果しかありません。
「叱られるところから始まったとしても、きちんと本質的に理解して改善できる子もいる」
という意見もあると思います。
もちろん叱られて目が覚めるケースもあるでしょう。
しかし肝心なのは叱られたから目が覚めたのではなく、
叱れている内容や叱られた後の対話によって意識を動かされ、最終的には本人の判断で行動を改善しているということです。
結局のところ「叱る」の部分は重要ではなく、重要なのは対話によってどのような合意を形成していくかというところです。
であるならば、「叱る」は省いてしまってもいいはずです。
叱らないようにするためには
叱らないようにするため、僕の場合は常にこのことを念頭に置いて子どもと接するようにしていました。
「子どもと大人は対等である」
中学校ですから教科担任なわけですが、自分が学級担任を務めるクラスと授業を受け持ったクラスでは春に必ずこのように伝えていました。
「僕とオバマ大統領と僕は対等なんだぜ」
こう伝えると、半分くらいの生徒たちはギャグかと思ってクスクス笑っていました。
半分くらいはスベッた感じで見ていたでしょうか。
「立場は違うから、もし実際に会ったとしたらすごく礼儀正しく接するけどね。でも人としては対等だ。」
と、こう付け加えるわけです。
「だから、君たちと僕も少し立場は違うし、君たちは日本文化の中では僕に敬語を使った方が良いとは思うけど、でも人としては対等なんだよ。」
こんな風に話をしていました。
子どもと対等な関係を築く
僕は子どもたちと友達のようになぁなぁになれと言っているわけではありません。
別に友人のように親しくなるのは構わないと思いますが、一般的にいわれているようななぁなぁの関係はやはり好ましくないように思います。
一般的ななぁなぁの関係では、善悪の判断を曖昧なものにしてしまうことがあるように思います。
そこは対等とはいいがたいと考えています。
対等であればこそ、相手の課題にぶしつけに介入はしませんが、正しくないことは正しくないとはっきり伝えてもいいと思っています。
対等な相手に意見を伝えることはあっても叱りつけることはない
例えば僕は電気をつけっぱなしにしていることをたまに妻に指摘されますがあくまで指摘であって怒りをぶつけられたりはしません。
(まぁ怒りをぶつけたところで僕が素直に聞かないと思っているのかもしれませんが笑)
反対に僕も、妻がうっかり食器を片付けていなくても、協力してほしいと依頼はしますが、叱ることはしません。
これは我が家の夫婦関係が対等なものだからだと考えています。
相手を尊重し、対等だとみなしていればどちらかが優位性をもって相手を叱ろうとすることはありません。
どちらかが優位にたって相手を叱りつけて自分の主張を押し付けていたとしたら、それは健全な夫婦関係ではないですよね。
学校教育ではなぜかこれがOKになってしまっているわけです。
基本的に大人が正しく、大人は子どもを叱ってOKという謎の風土があるのです。
しかしこれは健全とはいえません。
ではどうやって子どもと対等になればいいのでしょうか。
敬意を持って接することで横の関係を築ける
僕が教室で実際にやったのは、相手を尊敬するという、ただそれだけです。
特にテクニック的なものは使っていませんし、特別なこともしていません。
ただただ相手を尊重するだけです。
そもそも日本の文化的側面として、我々は年下の相手を見下しやすい傾向があると思っています。
部活動や学校生活で強烈な縦社会を経験して大人になりますから、我々大人もまたその価値観に縛られています。
僕は大学時代サークルの後輩と接するのが正直言って苦手でした。
ものすごく気を遣われるからです。
自分はそんなに偉くもないのにそんなにペコペコしないでほしい・・・。
一方でしっかり兄貴分としてある程度どっしりと構えて
いわゆる「先輩ヅラ」できる人もいるわけです。
少し話が脱線しましたが、とにかく風土に根付いた年齢差別が日本には存在します。
ですから、改めて子どもたちと対等に接してみようとすると、意外とこれが難しかったりもするわけです。
ですから、特別なことは特に必要ありません。
心の底から「子どもたちと自分とは対等な存在である」
こう強く意識して1日過ごしてみてください。
恐らく、子どもたちとの接し方が自然に変わるはずです。
教師が子どもを罰してはいけない
対等な関係を持った相手に対して賞罰を与えてはいけません。
「数学のテストで25点を3回連続でとったので成績を5段階で2にした」
こういった場合は罰を与えたことにはなりません。
教師自身の意思が罰則のように2を与えたわけではなく、評価基準が存在する中で機械的な評価として2という数字になっただけです。
「掃除をさぼりがちなので、昼休みに清掃の仕事を指示した」
これは罰則を与えたことになります。
この場合は教師が考えた不利益を子ども自身に負わせている形になります。
そもそも対等な相手に何か条件を提示してこちらの言うことを聞かせるというのが不健全です。
これも夫婦関係に置き換えて考えてみるといいかもしれませんが、
対等な相手に対して罰などは与えないものです。
これは実際にやってみると意外な副次効果もありました。
子どもとの対立がなくなるんですね。
こちらの采配で罰則を与えると怒りや復讐心がこちらに向きますが、
ルールや法に則った不利益に関しては特に子どもと対立することがありません。
例えば、頭髪違反をした場合は
(そもそも頭髪違反というルールそのものに問題はありますが、、、。)
私は別室指導をして家庭訪問をしていました。
しかしこの別室指導や家庭訪問も、自分の意思とは関係なくそうするようにと学校の決まりが存在しているのでやっていると、違反をした本人に伝えていました。
これはもちろん事実で、頭髪違反というものがナンセンスだという個人的考えも持っているが、自分の立場ではこれはやらされてしまうからどうしようもない。
このように説明していたわけです。
すると毅然とした対応をしても、特に生徒からの恨みをかうことはなくその後も普通に接していくことができます。
まとめ
- 自立を奪う行為であるため叱ってはいけない。
- 叱らないためには子どもを対等な相手であるとみなす。
- 敬意を持って接し、不要な対立をしない。
この記事では、子どもを叱らない教育の基本的な考え方を述べました。
叱ったときの後味の悪さ、叱られた子どもの自信を無くした表情。これらが僕は嫌いです。
これがなければ人が成長できないというのであればしなくもないですが、3年近くに及ぶ叱らない教育の実践から教育に怒りは必要ないという確信を得ました。
叱ることは力をもって相手の行動を強制する行為です。基本的には戦争や暴力と同類だと考えています。
今までやってきたからこれでいいんだということではなく、
安心してのびのび自立していけるよう、
怒りを用いた教育について、一度立ち止まって考えてみていただきたいのです。
やるのは結構簡単です。
怒りを使わないのは、子どもたちだけでなく自分自身も豊かになる方法だと思いますよ。
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