前回の記事の続きです。
前回の記事↓↓
前回の記事では、子どもを叱らずにいうことをきかせる魔法の技術を紹介すると見せかけて
「そんなものはない!」
と、ズバッと言ってしまいました。
この記事ではなぜ叱ってはいけないのか、なぜいうことをきかせようとしてはいけないのかの続きを紹介していきます。
また、とはいえ叱らずにこちらの意図を伝えていくためにはどうしたらいいのかというちょっとしたエッセンスも紹介していきます。
「いうことを聞かせる」は教育の目的に反する
叱らないうえで「いうことをきかせる」という発想も捨てなければいけません。
いうことをきかせるという発想は生徒から「自立」を奪うからです。
教育の目的は「自立」
子どもたちにはぜひ自分の力で運命を切り開く能力を身に付けてもらいたいところです。
忘れ物をした生徒がよくこういった言い訳をしていました。
「お母さんが入れるのを忘れたみたいです」
これは自立しているとは言えませんよね。
自分以外の環境や人に責任を任せている子どもは多くいます。
そのまま大人になったとすると、人生のコントロールを他人や環境に渡してしまっているという状態になるわけです。
例えば新型コロナウィルスのせいで自分の人生がうまくいかないと嘆く人たちは、多くの場合自立していないと言えるかもしれません。
大打撃を受けている飲食店経営者の友人がいますが、彼は今できる最善を考え逆に多くの飲食店が店をたたむ中でも、下がった不動産相場に目をつけ次の店舗のチャンスをうかがっています。
大人になろうとしている子どもたちにもぜひ自立してもらいたいのです。
「いうことをきく」が最も効率の良い生き方で、自分なりに考える方が面倒ごとが増えるようであれば
子どもたちは自分で考えることを辞めてしまいます。
そんないうことをきくだけのヒトを量産して、この国に未来はあるのでしょうか。
世の中は「お願い」でまわっている
いうことを無理にきかせるのは原理原則に反しています。
教育の目標から逆算してもやってはいけない指導の方法です。
では子どもたちに協力してもらいたいときは、どのように働きかけたらいいのでしょうか。
答えは、皆さんが対等な友達に動いてもらうときにしている行為と同じです。
お願いすればいいのです。
子どもは経験が少ないだけの独立した一個人である
我々は教師になった瞬間なぜか相手より立派であろうとします。
これは親や上司にもいえることです。
そしていつしか「相手の方が未熟で自分の方が正しいはずだ」という思い込みを持つようになります。
もちろん多くの場合そうなのですが、別にだから指導する側がエラいわけではありません。
ある刃物屋さんで、お店の人に砥ぎのことを教えてもらったことがあるのですが、話し方が常にマウンティングをとった感じでした。
会話の中で「知り合いの方に砥いでもらうこともあります」というようなことを言ったのですが、「そんな人よりもプロの私の方が優れているに決まっているでしょう。」というニュアンスの態度をとられたりしました。
もちろん事実だとは思うのですがこれには全くいい気はしません。
多くの人はフラットな敬意をもって相手と接することを望んでいますし、それは子どもたちも同じです。
子どもたちは独立した一個人であって、それは生まれたばかりの赤ちゃんであろうが中学生であろうが同じことです。
「赤ちゃんに大人と同じ責任を負わせるのか」ということも言われそうですが、そうではなく
彼らは独立した一個人ですが、身体能力や言語が未発達なので介助が必要なだけです。
寝たきりになったご老人も、もしかすると赤ちゃんと同じような身体機能になっている場合もあるかもしれませんが、普通であれば彼らを介助しても見下したりはしないでしょう。
子どもたちに足りないのは経験や心身の発達だけで、尊重されるべき一個人であることには変わりありません。
僕の個人的な見解としては、日本の教育にはここの感覚が抜けていると感じています。
儒教的な文化から年長者を敬うのが当然のこととされていますが、ともすれば年齢差別ともとれるような態度をとってしまう人を非常に多く見かけます。
僕が年齢で軽んじられなくなったなと感じたのは30歳を過ぎてからです。
30年間ほどはずっとなんらかの年齢差別を受けてきました。
できるのは依頼や提案だけ
相手が対等な存在であって、教育の目標からも「叱る」や「いうことをきかせる」が外れているのならば我々には何ができるのでしょうか。
答えは簡単で、あなたが親しい友人にしていることと同じことをすればいいのです。
僕には対等でいつでも助けたいと思え、且つ助けが必要な時は頼れる友人が何人かいます。
本当に助けが必要な時は彼らに助けを求めます。
家で飲み会をするとき、ソーダが足りなければ彼らに買ってきてくれるよう依頼します。
僕が友人の家にお邪魔するときは彼らが喜びそうなものをGIVEします。
困っていそうな雰囲気を察知すればそれとなく声を掛けますし、本人が解決すべき課題にはむやみに介入しません。
話してくれた秘密は守りますし、万一間違った方向に進みそうなときはしっかり話をするでしょう。
我々が友人にできるのは依頼や提案だけなんです。
そしてほとんどの人がこれを実践しているはずです。
なぜなら対等な友人関係では、このスタンスで接していない限り、その友人関係は壊れてしまうからです。
ぜひ親しい友人と接するときのように子どもや部下を尊重して、交友の関係を築き、依頼をしてみてください。
ときには不愉快であることを伝えてもよい
問題行動を見つけると、教師や上司は注意や指導を行うはずです。
法やルールに反している場合はその規則に従って粛々と処理を進めるだけでいいと思いますが、そうではないが黙っていられないときというのもあるでしょう。
私が行う授業は基本的にトータルで7分以上私が説明や講義をする時間は設けません。
残りの約40分は何かしら手を動かしたり議論したり考えたりしてもらう時間にしています。
しかし、どうしても説明が必要な場合は簡潔に済ませるかわりにしっかり聞いておいてほしいという「お願い」を子どもたちにしています。
こういった授業の設計にしておくと、万一その説明中に立ち歩いてしまう子がいたとしてもほとんど注意はしなくて済みます。
「ここはしっかり聞いておいてほしいので協力してくれるかい?」私がいうのはこれだけです。
協力が得られなければ授業が終わった後にそれとなくその子に話しに言って事情をききます。
「あのとき立ち歩いた目的は何だった?」
「後ろに荷物を置いていたから取りに行った。」
「大事なことではある、次回から授業が始まる前に取りに行っておいてもらえるかい?できるだけ説明を省く授業のつくりにしているけど、やはりああいうとき誰かが立つと僕の集中も切れちゃうし、何人かの視線が切れてしまっていた。一生懸命いい時間にするよう準備しているから、君に協力してほしい。」
「わかった。」
だいたいこうなります。
結果次の授業でも同じように立ち歩くでしょうが、本人が協力したいなと思ったときになくなればいいので根気よく続ければいいだけです。たいていの場合親しくなっていき、本人も参加できる設計にしておけば問題行動などはなくなります。
周囲の子もこの一連のやり取りは目の端で追ってみています。
ほとんどの子どもはいちいちこういったことを説明されるまでもなくわかっているので同じようなことはしません。
デモンストレーションのように苛烈に子どもを叱りつけて周囲への抑止力にする教師がたまにいますが、同じ効果があるならこちらの方が良いはずです。
デモンストレーションで苛烈に叱って周囲に警告を与える行為は、非常に卑劣な行為です。
たまにこれを技術の一つとして進めてくる教師がいますが、絶対にマネをしてはいけません。
逃げ出した奴隷を鞭で滅多打ちにして周囲の奴隷に警告を与える奴隷商と同じです。
最後に
「叱らずにいうことをきかせる技術」は存在しませんし、存在を願ってもいけません。
こちらの提案を受け入れるかどうかは相手次第であるということです。
教師の提案や指示に正統性があればわざわざ反抗したりしないでしょうが、それを判断するのは相手です。
我々にできるのは相手と交友の関係を結び、提案の精度を上げていくことだけです。
指示があいまいだったり、提案の内容が微妙なものである場合、徐々にだれも同意してくれなくなります。
新型コロナウィルスの第四波に対する緊急事態宣言と似た部分があるかもしれません。
最初の方はお願いもしっかり聞いてもらえていましたが、提案の内容の精度が微妙になっていきお願いされるばかりの状況に嫌気がさした国民のなかには、もう提案を受け入れないという人の割合も増えてきています。
「叱りつけていうことを聞かせる」は不可能であり。
我々にできるのは法や規則を粛々と守っていくこと、
またそれ以外の部分に関しては妥当性のある提案やお願いをしていくことだけです。
ぜひ、子どもたちと交友の関係を築き上げ、良い提案やお願いをしてみてください。
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