教員を辞めようとするとき、また、そうでないときでも、自己分析は人生において非常に有用だという記事を書きました。
最近毎日しっかり時間をとって自己分析を重ねている私ですが、
今回は自分の人生の軸について書いていきます。
僕が今思う人生の軸は次の4つです。
我が子は活力でありスクリーン
自分の軸を考えたとき一番に浮かぶのは2人の子どもたちです。
子どもたちの存在が僕のエネルギーです。
子どもたちのためならなんだってできます。
とはいえ恥ずかしながら子どもたちが生まれてきてくれてからすぐにこういった考えを持っていたわけではありません。
長い育児休業の時間を過ごして、少しずつそう思える自分に変化してきました。
女性は10か月間かけてお腹で子を育て、その長い準備を経てから出産します。
そのため、産んだすぐあとから母親になる心の準備ができている人が多いようですが、我々男性はそうでもありません。
中には共感力の高い人もいて、奥さんが出産してくれた瞬間に号泣している人もテレビなどでは見かけますが、
肌感覚的にそういった人は少ないように思います。
僕の場合も、「生まれたんだな。すごいな。」というくらいの感情だったように思います。
2人目に至ってはコロナ禍で出産に立ち会えませんでしたので、なおさら実感はわきませんでした。
僕の場合はですが、ある日ふと父性に自覚する日が来ました。
「この子たちがいるとどんなイヤなことがあってもすぐに書き消えてしまう。」
「この子たちにカッコいい姿を見せるために、自分も進化を続けないと。」
「なんだか愛おしくて儚くて仕方がない。」
こんな風に感じている自分を自覚したタイミングがありました。
実際にどんなに悔しいことやイヤなことがあっても、子どもたちが楽しそうにしているのを感じると一瞬でかき消えてしまいます。
「この心境の変化を女性は出産の時期に味わっているのか。」
こう考えると、こんなに素晴らしい体験をしていたのだなと、女性の母になった瞬間を疑似体験できた想いでした。
さて、自分の生きる目的の一つになってくれた我が子たちですが、「活力」と「スクリーン」とはどういう意味なのか。。。
「活力」というのは言葉の通りですね。
ガソリンというか養分というか、、、ガソリンや養分と違って減っていくことはありませんが、
とにかく私が日々進んでいくための大きな原動力になってくれているのは間違いありません。
そういった意味での活力です。
「スクリーン」というものは投影する対象という意味です。
つまり、自分が自分らしく生きる姿を子どもたちに身近な大人のお手本として示し続けたい。
こう考えています。
子どもたちを糧にどんな父親像を見せていくのか。このあたりの美学については人それぞれだと思います。
時代や人によっては不平不満を言わず組織のために自分を犠牲にして頑張る姿を示そうと考えるかもしれません。
しかし僕は子どもたちに自己犠牲のうえで人や社会を助ける人にはなってほしくないです。
僕はこれをアンパンマン型と呼んでいますが、どちらかというとルフィ型になってほしいのです。
つまり、自分の器を先に満たした状態で溢れた分で人を助ける。
自己中心的利他とでもいいましょうか。
自分らしく生きていたらいつの間にか人の役にも立ってた。
そんな生き方ができたら素敵だと思いますし、きっとそんな生き方ができる世の中にもうなりつつあるんですよね。
ですから、僕はそんな父親でありたいなと思うんです。
自分らしく生きて、豊かに自由に人の役に立てる。
そんな姿を我が子たちに示し続けていきたいという責任感が、その目標をより強固なものにしてくれる。
だから僕の人生の軸は我が子たちであり、活力&スクリーンだと捉えられるわけです。
妻を大切にすることは生涯を通してのミッション
妻と一緒に生きていく中で心掛けていることは次の通りです。
- まずは与える
- 信頼する
- 頼る
- よく観察する
- 相手に興味を持つ
- 誇らしいと思ってもらえるようふるまう
- 尽くす
- 充実した自分を見せる
- 感謝の心
- 好きだということを伝え続ける
このほかにも心掛けていることはたくさんありますが、そもそもなぜこれらを心掛けているのか。
それは僕の人生の中でのこの目的を達成するためです。
これは理屈抜きに結婚するときにそう決めました。
この人と生きていく。これを死ぬときに言いたいなぁ、と。
自己分析によって根底にあるそんな感情を思い出したわけです。
というかこれに関しては思い出さなくてもけっこう常に思っています。
これを実現させるためには嫌われたら終わりなんですよね(笑)
こいつイヤだなって思わせてしまったらゲームオーバーなわけです。
かといって一方的にいうことを聞き続けてへりくだって進んでいくのも健全ではありません。
となると、必然的に最初にあげた10個の項目のことを実直にやっていくしかないわけです。
【まずは与える】
人間関係を良好なものにし続けるにはまずは与えることが大切です。
【信頼する】
まずは手放しで信頼します。束縛したい人にありがちですが、浮気を疑うなどの行為は厳禁です。
例えば浮気を疑ったとしたら、浮気の証拠は次々に出てくるでしょう。
実際に浮気をしていかどうかには関わらず、猜疑心が証拠を作り上げてしまうのです。
そうではなく、一生を共にすると決めた相手なんですから手放しで信頼してしまえば世界平和です。
反対に相手から疑われたら悲しい気持ちにもなりますよね。信頼されていないのかなって。
【頼る】
対等なパートナーであり人生の伴走者だと認めているからこそ、頼るときは頼ります。
これも逆の立場になって考えてみたとき、大切なパートナーが困っているのに助けを求めてくれなければそれはさみしい気持ちになるからです。
だから僕は困ったら妻に頼ります。負担をかけすぎてはいけませんが、助けてもらえた時はさらに絆が深まるように思います。
【よく観察する】
頼ったり与えたりするとき、相手が何をもらったら喜びそうか、
どんな事なら力になってもらえそうか、これを知るためには相手のことを良く知る必要があります。
ですから日々よく観察します。
妻は年々人として進化していきますし、女性は一カ月の中で様々にコンディションが移り変わるので、
毎日目が離せません。
【相手に興味を持つ】
これも私が教育者として人付き合いの中で意識していることなのですが、交友の関係を築くためには相手に興味を持つことが大切です。
このことは夫婦関係の中でも応用できると感じています。
妻が仕事に対して何を感じたのか、子どもたちに向き合う中でどんなことを思うのか、
観察すると同時に妻の関心ごとに私自身も興味を持つよう心がけています。
【尽くす】
どんな人にも波はありますし、無条件で優しくしてほしい時があると思います。そんなときに一番身近にいる自分がキチンと妻に尽くせたらいいなと思っています。
逆を言えば今までたくさん助けてもらいました。
【充実した自分を見せる】
中学校の教員時代にげっそりした顔で帰ってきている僕を見て、すごく心配してくれていました。
あとまぁ、仕事でエネルギーを使い果たした自分は家庭に貢献できる余力を残していませんでした。
これはうちの妻の場合ですが、どうやら僕がいきいきと楽しそうにしている姿が好きなようです。
よく考えるとみんなそうですよね。疲れて活力がなくなっていくパートナーよりも毎日いきいきと楽しそうにしているパートナーを見ていたいものです。
【感謝の心】
ありがとうを必ず言うようにしています。
ありがとうは感謝を伝えるための言葉であるとともに、相手を勇気づける言葉だと考えているからです。
妻が家族や自分に貢献してくれた時、欠かさずにありがとうを言います。
たまにギスギスしたりしてると言いにくくなったりしてしまいますけどね(笑)
それでもお互いが長く家族でいればいるほど、意識的に言葉にしていくことが大事だと考えています。
【好きだということを伝え続ける】
これはなんていうかまぁ洋画とかの見過ぎですね。
田舎のおじいちゃんおばあちゃんのような純和風の関係でもそれはそれで素敵なんですが、僕はずっと恋愛感情も持っていたいです。
昔お酒のCMだったかな?
「もう一度妻を口説こう」というフレーズがありました。
けっこう自分の琴線に触れ続けています。
自分と愛する人に最高の贅沢を ー資本と時間ー
家族や友人、周囲の人に豊かさを提供できたらいいなと考えています。
そんな力を持てたらなと。
今まさにそのための努力を開始したところですが、なぜそう考えるのか。
退職する前は新車のVOXYに乗っていました。
大衆車ですがそれなりの装備で、優雅に家族と移動できていたように思います。
しかし、その車も職場の自動車貸し付けを利用して購入したものです。
教職員の福利厚生制度による自動車貸し付けの金利は販売店も真っ青の利率です。
ほぼ利息なしで借りられます。現役の方は絶対に残価設定ローンなど組んではいけません。
話を戻すと、つまり公務員という人的資本の力を活用してその車両に乗っていました。
退職するにあたり、使用頻度や維持費、本体価格の下降の観点などから売却が合理的だと判断し手放しました。
車が旅立っていく日、娘が少し寂しそうにしていたのを思い出します。
また、自宅車庫の前を通ると
「おうちのくるまいなくなっちゃった?」と聞いてくるのです。
これは私の人的資本が公務員という肩書に依存していたために起こった悲しい出来事です。
私が身一つで価値を生み出す能力を持っていなかったために、娘から思い出を取り上げてしまうことになりました。
先日実家の軽自動車を借りて家族でドライブをした際、娘は車酔いをしてしまいました。
妻も、「VOXYだったら酔わなかったけど、今は私も少し酔っている。」と。
これはもう奮い立つしかありません。
そもそも私は自家用車が好きです。
住んでいる場所は割と都会で駅に近いのではっきり言って自家用車を持つことは不合理なのですが、
家族とのプライベートな空間で全員の安全を預かって別世界に行くという経験は格別のものだと気づきました。
カーシェアでももちろん良くて、同じことはできるんですが、自家用車には思い出が積み重なっていきます。
過度な贅沢をさせたいというわけでもありませんが、
せめて思い出を守ることができるくらいの経済力と、自由に行動できるだけの時間が欲しいと思います。
教員を続けた場合それなりの経済力は手に入れられますが、時間と余裕は奪われてしまいます。
また、私がそうだったように教職は他に応用しにくい技能しか身に付きません。
万一教員を続けられなくなったとき、このことは非常に大きなリスクになります。
このことからも、どこでも通用する人的資本と可処分時間を手に入れることを最優先にすることを決めました。
嘘を避け、開示的に生きる
これはもう自分の性格の問題なのですが、嘘が苦手です。
自分につく嘘も他人につく嘘もしんどいです。
他人に嘘をつくと、嘘に整合性を持たせるために頭を使わなければならなくなります。
例えば風邪をひいたと言って仕事を休めば後日どのような症状だったかも創作しなくてはいけません。
それがもう面倒です。
自分に嘘をつくのはしんどいです。
自分の気持ちに蓋をしてやりたくもないことをやる。
ときにそんなことも必要かと思っていましたが、それは非常につらいです。
生活指導を担当していたころ
生徒に「学校では化粧したらいけないんだよ」などと指導していましたが、自分自身そんなことはどうだっていいと思っていました。
嘘はつきたくないので、
「僕は正直どうでもいいと思っているけど、学校にはそういうルールがあって、それを守ってもらえないと僕は君ん家に行っておうちの人に色々説明しに行く、みたいなことをさせられちゃうんだー。いやだけど。」
って言ってました。
これだと嘘ついてないことになるんですけど、すると次は自分の無力さに嫌気がさすんですよね。
「『キレイになりたい』って思ってちょっと背伸びしてメイクしただけのこの子を僕は守れないのかー。」って。
そんな時代じゃないのに僕は子どもに何を言ってるんだろう。とか思っちゃうんですよね。
結局言いたくもないことを言いたくない伝え方で子どもに押し付けていますから、自分に嘘ついちゃっています。
多分自分の心を守るためには現状に流され、自分の行為を正当化し、自分を変えてしまえばいいんだと思いますが、それもそれで絶対嫌だったので結局退職してしまいました。
今はね、すごく楽ですよ^^
僕は今後SNSを有効的に利用して、開示的に嘘つかず発信します。
そのうえで、僕と仲間になってくれる方と出会えたらいいなと思っています。
以上、現段階での僕の人生の軸でした。