こんにちは。元中学教員で今は小学校で非常勤、子育て中フリーランスのマサムネです。
今回は、学級経営でやってしまいがちな「競争」をしてはいけない理由と競わせずに学級経営をしていく方法をお伝えします。
学級経営の競争とは
学級経営の中で競わせる技術は度々用いられます。
あなたが担任の先生ならもしかしたら知らず知らずのうちに使っているかもしれません。
「誰が一番早く用意ができるかな?」
「一番早く列が整うのはどのチームかな?」
けっこう使っていませんか?
こういった言葉がけをすると特に低年齢の児童は積極的に動こうとしますし、中学生であっても自分たちに利益のある競争であれば嬉々としてそのゲームに参加します。
効率的に教育活動が進みますし、子どもも能動的に取り組むので一見よさそうに感じてしまいます。
しかし、短期的には有効な技術であっても長期的な視点に立つと実は教育本来の目的からずれてしまっているのです。
なぜ競争させてはならないのか
本来の教育の目的とずれてしまうため、競わせてはいけません。
教育の目的は自立
教育の目的は、環境や人のせいにすることなく今ある自分をどう使って前に進んでいくか、その姿勢を獲得することです。
少し説明を短めにしていますが、アドラー心理学ではそのような状態を自立としています。
ここについては私も同意です。
今後変化の激しい世の中になっていく中で、今までのように与えられたことをただこなすだけの仕事はどんどん減っていきます。
自ら考え、改善したり工夫したりするという姿勢が求められているのです。
だからこそ、短期的にいうことをきかせる指導よりも長いスパンで自立を目指す教育が必要になってきます。
教育における競争
では、競争するということはどういうことなのでしょうか。
先ほどの例の「誰が一番早く用意できるかな?」を例に考えてみます。
体育の更衣を早く終わらせてもらいたい担任が、先ほどの言葉を言ったとします。
多くの子どもは競い合って着替えるでしょう。
この時の子どもたちの目的は何でしょうか?
もちろん早く着替えることなのですが、その先にまだ目的があります。
むきになって素早く着替えようとする子の目的は「一番になって先生や周りに認めてもらおう」です。
これを目的に置いて2位になった子は1位の子に難癖をつけます。
「シャツをズボンの中に入れていない!」
「まだあの子は完璧じゃないから私が本当の1位だ!」
こういった論争になるのです。
これに教師がジャッジを下して正確な順位を付けたところでそれには何の意味もありません。
競争で真の目的を見失う
ここでよく考えてみてもらいたいのですが、子どもたちが早く着替えなければならないのは何のためでしょうか?
彼ら自身の人生に直結する課題としては、
「素早く着替えることによって授業の時間を確保し、有意義な体育の学びをするため。」ですよね。
決して教師の管理のしやすさのために早く着替えるわけではありません。
あくまで目的は体育の学習を充実させることです。
しかし、競争を利用して更衣を早くさせようとすると本来の目的を見失います。
そればかりか、競争そのものが目的となるわけです。
自分で選んだスポーツにおいて競争に身をゆだねたり、自分が選んだ仕事について他者と競うことは良い刺激になるでしょう。
しかし突如として強制参加させられた更衣ゲームは、彼らの体育の授業の本当の目的をかすませてしまいます。
それであるならば、目先の時間短縮など捨ててしまった方が良いのです。
競争は承認欲求に負の刺激を与える
多くの人が抱く承認欲求ですが、競争はこの欲求を好ましくないかたちで呼び起こします。
「一番早く着替えて1位の称号を勝ち取りたい」というのはまさに承認欲求で、1位になることで周りの子どもより特に優れていることを誇示したがるのです。
ところが中には極端に更衣が遅い子もいます。
彼らにとってこの競争はどう映るのか。
「どうせ自分は着替えるのが遅いから勝てるわけがない。」
と、こう考える子が現れるでしょう。
承認欲求をくすぐられることが常態化している場合は別のことで人の気を引こうとするかもしれません。
「更衣の早さでは認めてもらえないから、突飛なことをして注目をひこう。」という思考になります。
競争の指導場面で「自分が勝てそうにない事柄だと早々にゲームを降りてふざける」という子どもをみたことがあるはずです。
あれはまさに、特別に良くあることがかなわないがために別のことで承認を得ようとする姿なのです。
競わせずに指導する具体的方法
競わせてはならないのであれば、好ましい行動をとってもらうためにどのようなアプローチをすればいいのでしょうか。
大前提、子どもは大人のために生きてはいない
まず大前提として理解しておいてほしいことは、「子どもは大人の願望をかなえるために生きているわけではない」ということです。
「早く着替えてほしいから競争させる」は教師の都合を競争にすり替えて押し付ける、卑怯なやり方ともいえるでしょう。
子どもたちは彼らが自立するために生きているわけであって、、、
しかしその日その時間に好ましい行動をとるかどうかは彼らが決めることで我々が操作できることではありませんし、すべきでもありません。
まずはここを大前提としておさえておいていただきたいのです。
まずは授業の内容を高める
協働学習でも反転学習でも講義形式でもなんでもかまいませんが、授業の内容が彼ら自身にとって有意義なものであるということを認識してもらわなければなりません。
そのためには授業の質を高めるのがまずは最重要です。
彼らが積極的に学びたくなるような授業を、まずは作り上げるところからがスタートです。
結果をそのまま子どもたちに還す
45分授業なのであれば、休み時間に更衣を初めて授業を行い授業終了の5分前くらいからもう一度更衣をするというのが一般的でしょう。
移動や準備運動などの時間を考慮すると実質の授業時間としては30分程度です。
更衣が遅れれば遅れるほど授業時間は短くなります。
その結果をそのまま子どもたちに還してあげればいいのです。
多くの子どもがポートボールの授業を楽しみにしているとします。
30分の授業構成で有意義な内容をふんだんに盛り込んでいたのにもかかわらず、更衣が5分遅れたと仮定しましょう。
すると子どもたちは不完全燃焼で授業を終えるわけです。
あとは教師が、「30分の時間で組み立てられていた授業が25分の時間しかなかったから途中で中断することになった」という事実をそのまま還してやればいいのです。
このとき、皮肉を言ったり責めたりする必要はありません。
そんなことをしなくても子どもたちは自分で学びます。
「有意義な時間を最大化するために、なるべく早く着替えた方が良いんだな。」
こういった思考になるわけです。
常に目的と結果にフォーカスする
さっきあげたのはあくまで一例で、体育の時間に限らずすべての学校生活の中で同じような場面に遭遇することができます。
常に本来の目的にフォーカスし、それを達成するためには何が必要なのか、その視点を子どもたちに渡してあげる作業を繰り返しましょう。
そうすれば、理科の時間にも算数の時間にも何にでも応用できます。
ただし、前提として授業が有意義である必要がありますので研究と準備と段取りは欠かせません。
「まずは授業力!」とはよく耳にする言葉ですが、あながち間違ってはいません。
パラグライダーでもっと遊びたかったヤンキーの話
ある年、私は中学3年生の修学旅行の引率をしていました。
修学旅行の体験学習の一環で、富士五湖の各地に分かれてアクティビティを楽しむというプログラムが組まれていました。
この学年は1年生のころから思い出深い学年で、対教師暴力反抗や器物破損のオンパレードでした。
そんな彼らも進級するごとに成長していき、3年になるころには見違えるくらいに良い学年になっていました。
しかし富士五湖のアクティビティ前の行程で、全体としての動きが思わしくないこともあり時間がおしてしまいました。
本来予定していた時間よりも1時間近く短縮してアクティビティを行うことになりました。
その学年に対して高圧的に指導することはほとんどなくなっていたので、その時も淡々と結果を彼らに還しました。
というよりもインストラクターの方たちにお願いしている時間はずらせませんから、シンプルにどうしようもなく時間を削るしかありませんでした。
あるグループは斜面から滑走して飛ぶパラグライダーを体験しました。
生身で空を飛ぶわけですから生徒たちは大興奮して一生懸命パラグライダーの技術を学んでいました。
終了の時間になり、インストラクターの方にお礼を伝えバスに戻る最中にある生徒がしみじみと何かを話していました。
ちなみにこの生徒は1年生の時から教室を出ては先生と相撲をとったり、ときに物を壊してしまったりするようないわゆる非行傾向のある生徒でした。
その彼が、もっとパラグライダーをしていたかったのか
「俺よくわかった。時間てだいじなんだな。」
と、こうつぶやいているわけです。
ああ、教育ってこうなのかもしれないなと、思った瞬間でした。
我々教師は環境を整えて、事実を伝えて視点を与えたにすぎません。
しかし彼は本来の目的にフォーカスして時間を守ることの必要性を自分なりに学んだのです。
彼にとってはまさに「修学」旅行になったのではないかとひそかに感動し、また私も教えられたという体験でした。
最後に
私が言いたいのは、目先の成果に惑わされないでいただきたいということです。
競争をさせればなんとなく素早く熱心にやっているようには見えるのですが、果たしてそれが本当に彼らの自立につながっているのか、もう一度確認してみたいのです。
私がお伝えしたやり方は、時間も労力もかかるかもしれません。
しかし自立を目指して長い目で子どもたちと歩んでいけば、そこには軍隊方式の学級はなく、自ら考えやさしさとひらめきのある学級がいるのかもしれません。
「かもしれません」と書いたのは、そうなってくれるかどうかすらも子どもたちしだいだからです。